コミュ障ライフ

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諦めたらそこで試合終了だぞ!ADHDの一般的な生き方

      2017/04/24

非常に変わった性格と思われていた

幼少の時に、幼稚園では非常に活発で元気で、少々女の子もよく意地悪で泣かしていたときは、単なるうるさい子供でした。

思えば、お遊戯とが歌の時間でも保育士さんから何度も注意され、小学校に上がってからも、よく家では忘れ物、宿題をやらずに親父に怒鳴られたり、

既にADHDの兆候はありました。学校でも先生には何度も授業中に注意されていました。

 

親が私を発達障害じゃないかと疑い始めたのは、高校受験の時で、塾に通い始めてすぐに講師から親が呼び出された時でした。

その時講師から僕の親は、「中学をちゃんと休まず通ってましたか?」と意外な質問を受けたそうです。

これはADHDの事をよく知らなかったので、かなりショックでした。しかし、生き方について悩むことは最初は、小さい頃でしたし全く感じたことはありません。

 

例えば簡単な方程式は覚えているんですが、漢字間違いも同じ文章では同じ漢字なのに、点が抜け落ちていたり、

講義中やテストの時にカンニングをしているのかと間違えられるほどです。

今思えば、こっれがADHDの障害、症状の一つでしたね。担任の先生からも、ソワソワして落ち着きがないなど、教室では他の生徒に迷惑になるとの話でした。

塾のそうした話は、生徒から他の親にも伝わり、やがて親の方から塾にクレームが入ったので、結局塾は止めてしまいました。

 

この頃から、人とは違った生き方をしているととよく感じる様には、なっていましたね。

小さい頃は単なる落ち着かない性格だと思われていましたが、塾を辞めた理由が「人から嫌がられた」という事でしたので、

後にカウンセリングを受けるまでは、引きこもりの様に登校拒否になってしましたね。

でも、その後家族の支えもあって、発達障害の支援センターで、様々なアイデアを頂き、やることを紙に書いて時間を区切って勉強したり、

 

ネットを使ってビデオで受けられる受験スクールに登録して、今では大学生活を送っています。

待向きな生き方にADHDの人がなるためには、やっぱり適切な障害のサポートがとても重要です。

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何をやってもダメな私

20代の主婦ですが、私は何をやっても最後までやりきることが出来ないでいました。

例えば、毎朝ゴミ出しに外に出ると、「一昨日からポスト見てないや」と、

つい郵便物に気を取られ、ゴミを玄関に置いたまま焦ってしまったりしょっちゅうでした。

 

しかもそれは携帯の請求書で、銀行に出かけてしまってゴミ収集に間に合わなかったなどがあります。

洗濯物をして、かごに入れてベランダに出たら、急に電話が鳴ってママ友と昨日、約束した待ち合わせの時間が過ぎていたり、そのまま洗濯物を忘れて買い物に出かけてしまったりなどです。

しかし生き方として、非常に辛いと感じたのは、主人は、洗濯物は放置したまま、帰宅しても食事の支度が出来ていないなど、毎日私が怒られていたことです。

私はADHDという障害については、その頃は全く知らない状態だったのです。

 

ある時主人がテレビの特集番組で、「君に似てるね。」といったのが、ADHDについての発達障害に関する特集番組を見ていた時でした。

その後主人の勧めで半信半疑、いつものように予約の時間に、他の用事で遅れてしまいましたが、近所の心療内科クリニックを受診するようになりました。

そこで、普段のいろんな失敗を素直に話して、途中で先生を前に泣いてしまいましたが、「手抜きを覚えると良いですよ。」

とアドバイスされたのを覚えています。

前向きな生き方は、ADHDの場合は、こうした障害が多々あっても、生活に工夫を見つ蹴ることだと知りました。

 

部屋の片付けは、ます捨てる物からゴミ箱、「片づけるものは一回につき10個まで」とか、目標を決めて今ではやっています。

ADHDの方の生き方は、まず適切な医師の検査で、自分がADHDであるとハッキリ自覚することです。

人と約束がある時は、電話の前にカレンダーを置いて、今日の日付にメモを残して、毎朝見るとか習慣としました。

自分でも、毎日キッチリ同じことが出来るのにはびっくりです。お料理も時短を覚えて、主人には今では褒められるようになっています。

ADHDは、簡単な工夫で出来ない。障害がある自分をカバーする生き方を見つけらると、この発見に今でも自分で驚いています。

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部下にもバカにされる人生

新卒で入社した時から、細かいミスは多かったのですが、職場が自宅から近いこともあり、

事務で毎日同じ作業の効率は人より良かったせいか、苦にはならずに10年目で昇進、主任になった頃です。

事務以外に、製造工場でしたので工程管理や、日々の業務は新しい事ばかり増える様になりました。

 

ところが、その頃から、周囲の社員の声、コピー機の音が気になるようになり、会議でも長時間座っていると、上司から「君は落ち着きがない。」

と強く指摘されるようになってしまいました。今思えば、これらは完全にADHDの症状と言えるものです。

その後、たまたま健康診断の時に、心療内科のカウンセリングを実施していると聞くチャンスが訪れました。

そこで今までは自分では普段のストレスが原因じゃないかと、カウンセリングを受け、その後の病院での受診で自分はADHDあると診断されたのです。

当時は家にいる時は服装もだらしなく、部屋も汚かったのですが、

生活状況と職場の会話などを話し、「家族に自分は障がい者だと、勇気を出して話して、今度はご夫婦で来てください。」と医師から言われました。

 

ADHDの障害を乗り越えるには、パートナーとの協力が不可欠です。

その後、私の生活は一つの手帳が心の頼りになりました。

妻からは、毎朝「今日の予定は?」と聞かれると、手帳を見る癖が付き、私の手帳には時間毎に、細かく今日のスケジュールが細かく書いてあります。

 

必ずそれを目を通すようになったのは、妻がしてくれる「手帳みた?」の声掛けでした。

毎日夫婦2人で手帳をチェックするので、最近では仲の良い夫婦とかご近所からは見られているようです。

生き方はかなり今でも変わってきたと思えています。

 

仲間からも呆れられた孤立した学生生活

小さいころから何故か集中力がなく、何とか高校から大学へはレベルは並程度ですが合格し、学生生活では共同で映像を作るサークルに属しています。

しかし、ちょっと休憩したつもりが、夜中の2時、3時になったりして深夜までゲームをしたり、

約束の映像のコンテなどが期日に毎回間に合わないなど、友人には迷惑ばかりかけていました。

 

自分が周りに声掛けしておきながら、全く自分は何もしない無責任さを責め立てられる、そんな日々はその頃続いていました。

また頻繁にそれを言われるために、嫌になってその後はパチンコなどに夢中、しかもそれでアルバイトの時間が過ぎても気が付かないなど、

「自分はダメな人間だ。」とよく思うようになりましたね。

 

自分なりに一生懸命にやってるつもりが、やることがたくさんあればあるほど、何故かやる気が起きなくて困っていました。

生き方もよくわからず、自分はだらしない人間だと自分をその頃は責めていたのです。

そこからADHDという障害の事をネットで知り、カウンセリングを受けることに決めたんですね。

そこで気が付いたのは、「自分で何でも一人で抱え込んでいた」という事に気が付き始め、周囲にいろんな作業を分担してお願いするようになったんですね。

 

今では、映像制作では自分が中心となり、スケジュールを管理するようになり、私自身が出来ないことはやってもらって、

皆を褒めるので、友人同士でも仲良く同じ映像仲間として頑張れるようになっています。

こうしてみると、ADHDの人は、協力と理解する人が周囲に出来て、ちょっとしたきっかけで立ち直れるようですね。

結局のところ、ADHDの本人は悪意をもってやっているわけでは無いので、あまり根を詰めずに気軽に相談できるところを見つけておくべきでしょう。


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